服を着る in TOKYO

ファッションとエンターテインメントについてふわふわ語る

デジタルファッションウィークを見て思ったこと

最近ファッションの話題を全く書いていなかったのですが、思うところがあり雑感を記録します。

ランウェイショーを開催する代わりに、デジタルコンテンツでのプレゼンテーションを行うことになった2021年春夏パリメンズファッションウィークとミラノメンズファッションウィークについて。

parisfashionweek.fhcm.paris

milanofashionweek.cameramoda.it

通常のパリコレやミラノのファッションウィーク期間中は世界各国からバイヤーやプレス、ゲストが集結するため、世界的にパンデミックが流行しているこのご時世ではショーの開催は難しい。音楽のライブや各種イベントがそうしているのと同じくデジタルに切り替えて行う、という選択がなされました。

関係者も一般の人も同じタイミングで、尚且つオンスケジュールで最新のコレクションを追っかけられるという点では画期的でもあったと思う。ただ、パリ・ミラノは日本と8時間ぐらいの時差があるのでなかなかリアタイするには根気と体力が必要だったと思います…。コンプリートした人はすごい……。

 

各ブランドの施策にそれぞれ差はあるものの、大方デジタル上での発表=「映像を発表し、コレクションのルック画像をリリースする」という発表形式がメインに採用されていました。

映像作品も含めてクリエーションだと言ってしまえばそれまでなのですが、見ている側としては服のクオリティやブランドの発信したいメッセージが、映像の質や構成に多少なりとも左右されてしまうことにややストレスを感じたというか……。映像の評価によって服のクリエーションやブランドの評価が変わる、ということをこれからは受け入れていかないといけないんだろうか。

そして、コンセプトを打ち出すあまり、服やコレクションとの距離感が遠くなってしまうような感覚を受けることもありました。

元々ランウェイショーでは、「モデルが服を着てランウェイを歩く、それを観客が見る」というシンプルな構造が主軸になっていて、まあライブと組み合わせたり、歩くだけでなくダンスなどフィジカルな要素を取り入れてみたり、様々な演出方法はあるのだけど「服が主役」であるショーだ、という揺るぎない定義があったと思う。

でも、デジタルでのプレゼンテーションは、現状見た感じだとその「服が主役」だという定義が揺らいでいる。メインのクリエーションでありメインコンテンツであるはずの服が、“映像”というコンテンツの中にある1要素になってしまうから。

映像の演出を凝れば凝るほど、1要素としての服、という映り方になってしまうのも、うーーん、と思ってしまったポイント。服、コレクションそのものから受ける刺激が映像表現で希釈されているような感覚がする。

ランウェイショーを見る、というのはある種定点観測的なところがあって、随時自分の視点の置き場を自分で決められるのですが(それが例えばYoutubeなどの記録映像だったとしてもある程度は)、映像でのプレゼンテーションはカメラのフォーカスに視点を限定されてしまうな…、ということも思いました。見る側が自分で決定できていた視点を、いきなり発信側に委ねなくてはならなくなった。

だったらどうすればいいの、という正解が見えているわけでもなくつらつらと本当に恐縮なのですが……。どちらかと言えば、シンプルにモデルがウォーキングしているところにフォーカスして映し出してくれた方が集中して見られるしわかりやすくて良い、というのが私の現状の個人的な意見です。

リアルとの乖離や距離感を埋めるため、「店舗」「メディア」「SNS」という現実的な接点をキープし続けるのはもうすでに各ブランドがやっていることですが、これからはより一層リアル、とか実体験、親密さ、みたいなところを大切にしていかないと、なんかファッションのクリエーションって概念だよね、みたいなことになっていきそうだと思いました(もうすでに形骸化している、と言えばそうだとも思う)。

 

だから、ファッションウィークで発表されたそれぞれの映像を、ブランドが打ち出す映像作品だ、と割り切って見るのはアリ、というかそういう視点で見ると楽しいです。

実際に、コレクション発表というよりもそのティザー的な扱いで映像は映像、という方向性にシフトしているブランドもいくつかあった。ただ、ティザーをファッションウィークのオンスケジュールで発表する、というところでもうすでにファッションウィークの意味合いは変わっているんだな、と思いました。